カテゴリー別アーカイブ: 番外編

対馬

韓国では、対馬はくれてやるが竹島は韓国のモノだと言う人がいます。

対馬は、李氏朝鮮時代はもちろん、それ以前にも韓国に帰属したことはない独立国だったと考えられます。

戦国時代、足利幕府の支配が弱まると倭寇が台頭。
西日本を拠点に東アジアを荒らし回った倭寇対策で、朝鮮政権が対馬に出兵したことがありますが、その出兵に日本は関与せず、対馬の領主が単独で支援しています。
もし、対馬が日本領なら幕府や朝廷に断りなく朝鮮が兵を進めたり、対馬の領主がこれを迎え入れたりするのは問題ですが、独立国なら領主の裁量です。
幕府も朝廷も問題視した様子はなく、独立国として認識していたのでしょう。

対馬は日韓貿易の中継地として、独立を維持していたものの、この時代に小国が生き残るのは難しく、日本と朝鮮、いずれかに帰属する必要に迫られたと考えられます。
そして、対馬を支配していた宗氏は秀吉の臣従を決めました。

宗氏はなぜ、朝鮮ではなく日本を選んだか。
理由は定かではありませんが、文禄の役、すなわち秀吉の朝鮮出兵のわずか5年前であり、朝鮮の傘下より武力で勝る日本の傘下の方が安心と思ったのでしょうか。

それと政治体制もあります。
李氏朝鮮は中央主権国家。
国土はすべて王の領土であり、地方行政のトップは原則的に中央から派遣された官吏です。
対馬が朝鮮領になると、宗氏の権限はどうなるか。
仮に当主である宗義智宗がそのまま支配を認められたとしても、子孫の立場がどうなるかわかりません。

一方の日本は封建国家。
地方の領主である’大名’自身は為政者の臣となりますが、領地と領民は大名が支配します。
豊臣秀吉は、自ら臣従を申請した大名には土地を安堵し、秀吉に逆らって平定した領土は取り上げて臣下に与えていました。
秀吉の臣下となった宗氏も領土の安堵、すなわち対馬の支配を秀吉から認められています。

宗氏が朝鮮ではなく、日本を選んだことで従来通りの支配権はそのままだし、さらに、もし他国が攻めてきたら秀吉軍に守ってもらえる’傘’も得たわけです。

対馬の宗氏は、江戸時代にも通訳や外交文書の翻訳など、日朝外交で重要な役割を担っています。

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竹島と独島その2

国家間の領土問題を解決する手段として、紛争と国際司法裁判所があります。
国際紛争は日本国憲法で禁止されており、国際司法裁判所は、二国間の紛争は両当事国が裁判での決着に合意する原則があります。
日本はこれまでに3度、国際司法裁判所に提訴していますが、韓国が裁判での決着に合意しないため、審議はなされていません。

江戸時代&朝鮮時代の史料等から、日本は隠岐島の先にある(旧)松島まで日本領と主張し、韓国は鬱陵島に近い(旧)于山島を韓国領と主張しています。

地図で見ると、隠岐島の次が’現’竹島。
韓国から見ると鬱陵島の横に小さい島「竹嶼」があり、その次が独島。
韓国が主張する于山島は竹島(独島)ではなく、この鬱陵島の近くにある竹嶼という推察もできるわけです。
なお、鬱陵島はかつては于山と呼ばれていました。

江戸幕府が竹島を日本領と認めた文書があると主張する人がいます。
江戸時代の日本では、現在の竹島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と呼んでおり、江戸幕府が朝鮮領と認めていた竹島は、この(旧)竹島=現在の鬱陵島を指すわけです。

明治初期、西洋の地図に、鬱陵島は(誤って)’松島’と記載されました。
この地図をもとに’松島’を調査しましたが、その調査した島は’松島’ではなく、実は’鬱陵島(旧竹島)’とわかったため、なぜか名前を入れ替えて、(旧)松島を「竹島」と呼ぶようになりました。
また、鬱陵島の近くにある’竹嶼(チュクソ、죽서)’という小島がありますが、一般には’竹島(チュクト、죽도)’と呼ばれています。

鬱陵島;日本名/竹島→松島→鬱陵島、韓国名/于山島→鬱陵島
竹島(独島;日本名/松島→竹島、韓国名/不明(于山と主張)→独島
竹嶼(鬱陵島に付属する島);通称、竹島

’竹島’という紛らわしい名称に変えたのも、領土問題がややこしくなった一因かもしれません。

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竹島と独島

旅行者が出会うことはありませんが、韓国人で仕事をしていると、対馬はあげるが竹島(独島)は韓国のものだと言われることがよくあります。
韓国に居住する日本人にとって、避けて通れないテーマの一つです。

韓国では、竹島は統治時代に日本が韓国から奪ったと考えている人がたくさんいます。

実のところ、竹島と独島の帰属は、日本では江戸時代、韓国は朝鮮時代に遡ります。
両国とも鎖国時代で、外洋にでるには許可が必要でした。

江戸時代の日本で、隠岐島の先で漁をしたいという申請に対し、当初は鬱陵島まで認めていましたが、日朝間の交渉で鬱陵島は朝鮮領となりました。
隠岐島の次の島(松島)まで日本領、鬱陵島とその次の島(于山島)まで朝鮮領となりましたが、隠岐島、鬱陵島からそれぞれどのくらいの距離かなど島を特定できる資料はでていません。
竹島(独島)はかつての’松島’というのが日本の主張で、’于山島’というのが韓国の主張ですが、決定的な文書が発見されておらず、両国の主張が平行線になっているのです。

この島の帰属は日韓基本条約でも議題になりました。
日韓国交回復を急ぐアメリカが業を煮やしたこともあって、一時は爆破しようという意見も飛び出したといいますが、結局、日韓基本条約は島の帰属問題は棚上げにして締結されました。

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中大兄皇子は翹岐なのか

中大兄皇子の言動や大海人皇子との関係には不可解なことがいくつかあり、中大兄皇子は翹岐で、中臣鎌子は智積だったという説の論拠にもなっています。
実際はどうだったのでしょうか。
中大兄皇子と扶余豊璋はいわゆる義兄弟のような関係だったのかもしれない。
扶余豊璋は幼くして来朝。 祖国には兄たちがいて百済王になる可能性はまずありません。
片や中大兄皇子こと葛城皇子も帝の子といえ、実権は蘇我氏が掌握しています。
異母兄の古人大兄皇子は蘇我の血筋だし、古人のほかにも蘇我の血をひく皇族は多く、葛城皇子が帝になる可能性は皆無に等しいのです。
二人の皇子は、将来、即位する可能性がなく、歳も近かったと推察されます。
そんな二人が意気投合するのは自然の流れだったと考えます。
過去の例から、蘇我に目をつけられると生命の危険さえあります。
葛城皇子は表舞台にでることなく、ひっそり暮らしていたのでしょう。
若い豊璋は命の危険はなくとも歴史の舞台に立つこはありません。

乙巳の変で、古人大兄皇子の「韓人が鞍作殿を殺した」という言葉は、扶余豊璋なり、あるいは翹岐や智積など、百済から帰化した人が深く関わっていたと解釈できます。
現場は三韓の調を奉る場で、扶余豊璋なり三韓からの帰化人がいても不思議ではなく、その帰化人が深く関わっていたと解すれば納得できます。
そして、中大兄皇子の百済遠征も、蘇我一族から帝に政権を取り戻してくれた扶余豊璋への礼かもしれません。帝になる可能性がなかった葛城皇子は、乙巳の変によって帝となる可能性が生まれました。
百済出兵によって、今度は豊璋に王になる可能性が生まれました。
扶余豊璋が乙巳の変に深く関与したのなら、百済出兵は中大兄皇子が豊璋にできる最大の返礼だったでしょう。
また、大海人皇子が中大兄皇子の皇女を妃にしたのは、第二の蘇我氏を生み出さないため、大海人が皇女を引き取ったとも考えられます。

日本書紀は、古事記とともに、天武天皇が命じて書かせたといいます。
乙巳の変で蘇我蝦夷は書庫に火をかけて多くの史書が焼失したため、記憶や散逸した資料をもとに編纂されました。
編纂を指揮したのは天武天皇の子ですが、編者のなかには乙巳の変や百済遠征をリアルタイムで経験した人もいたに違いありません。
多少の記憶違いはともかく、明らかな虚偽の記述を行うとは考えにくく、信憑性は高いと考えます。

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称制と天智帝即位

中大兄皇子は、斉明帝が崩御したあとも、即位せずに皇太子のままで政務を執ります。
そして称制から6年半が過ぎた天智天皇七年(六六八年)に即位しました。

白村江の戦いに負けた倭軍は、百済人亡命者とともに帰還しましたが、扶余豊璋は倭に戻らず、北方の高句麗に逃れました。
そして高句麗もまた、天智帝が即位した六六八年、新羅・唐連合軍によって滅ぼされ、豊璋は高句麗王とともに唐に連行。

扶余豊璋は百済王義慈の直系で、百済帰国と同時に百済王になり、翹岐は傍系です。
倭には豊璋の実弟である善光もいて、豊璋に万一のことがあれば、善光が百済王の第一継承者。善光は後に持統天皇から百済王の称号を授かっています。

もし、中大兄皇子が翹岐なら、百済王の許可なく帝になるわけにはいきません。
そして、高句麗が滅亡して豊璋の行方が知れなくなると、翹岐が即位する障害はなくなったと解することができます。
善光は百済王子ですが、先王の実弟である翹岐も百済から見れば同じ立場になります。

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大海人皇子と妃たち

大海人皇子には、後に皇后となった鸕野讃良皇女の他に三人の妃と三人の夫人がいますが、鸕野讃良皇女を含む四人の妃は皆、中大兄皇子の娘。
皇女たちが大海人皇子の妃となった経緯は詳かでありませんが、なぜ、自分の娘を四人も弟の妃にしたのでしょうか。
この時代の皇族や貴族の妃は、婚姻によって血縁関係をつくるいわゆる政略結婚が多く見られますが、弟ならすでに血縁はあるので、婚姻によって血縁関係を作る必要はありません。
血縁関係がなければ、中大兄皇子にとって大海人皇子は、最も懐柔したい人物です。
ちなみに、中大兄の娘のうち、大田皇女は中大兄皇子の即位する一年前に亡くなり、大江皇女と新田皇女は天武天皇没後の六九九年に薨去。
鸕野讃良皇女こと持統天皇は七〇三年に崩御し、火葬ののち天武天皇と合葬されました。

大海人皇子こと天武天皇は即位すると、すぐに新羅と親交を結んでいます。
新羅にとって倭はかつての仇敵であるにもかかわらず、いとも簡単に親交を結んでいます。
また、大友皇子をはじめ、自らの妃を除く天智帝の皇子を根絶やしにしました。
中大兄皇子こと天智天皇が翹岐なら、百済王族の血をひく男子を根絶やしにした天武天皇は、新羅にとっては敵ではなくなるので、積極的な親交を結んだとしても不思議ではありません。

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百済遠征

時は下り六六〇年、唐・新羅連合軍が百済を滅ぼした折、中大兄皇子は扶余豊璋を王に迎えたいという百済遺臣の要望を受け取りました。
倭国は六〇四年、任那救援を断念した後、朝鮮半島の政治には関与せず、等距離外交を保っていました。とくに百済・高句麗連合と新羅・唐連合の対立構造となってからは、どちらにも与せず、中立を保っていました。
ところが、中大兄皇子は百済が滅亡すると、大軍を送ることを決断し、軍を支援するため、斉明帝とともに九州に出向いています。
唐と戦って勝利を収める可能性はゼロに等しいことは十分に承知していたはずですが、もし中大兄皇子が翹岐だとすれば、祖国のために全力を尽くすのは当然かもしれません。

この遠征には斉明帝と大海人皇子も参加しています。
帝、皇太子、さらには大海人皇子や一族郎等を引き連れて遠征すると京は空になり、反乱が起これば朝廷はひとたまりもありません。
自ら参加するなら帝を京に残し、帝の補佐役として大海人皇子を残すか、帝と皇太子が京に残り、大海人皇子を総大将として派遣するのが自然ですが、中大兄が翹岐なら皇太子が不在となった京を大海人皇子が掌握しかねず、そのため、大海人皇子を帯同したとも考えられます。
なお、義慈王が追放した四十人のなかには、母妹も含まれており、中大兄皇子が翹岐なら、斉明帝は皇極帝の重祚でなく、翹岐の母であった可能性も指摘されています。
それなら、帝自ら出征したことも頷けます。
戦いの最中、斉明帝が崩御すると、中大兄皇子は大海人皇子に後事を託して、自らは帝の亡骸を携えて帰京しています。

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中大兄皇子と中臣鎌足

日本書紀に中大兄皇子がはじめて登場するのは皇極二年(六四三年)で、盟友中臣鎌子も同時に姿を現していますが、その前年の六四二年を最後に、翹岐と智積という二人の百済の要人が、歴史の舞台から姿を消しています。
翹岐は百済義慈王の実弟で、智積は百済王族の血を引く大佐平。佐平は百済の大臣で、なかでも大佐平は倭の大臣、大連に相当する高官です。
六四一年、百済・武王の後を継いだ義慈王は、反乱の目をつみとるため、母妹女子4人を含む四十人余を放逐。内政を操りたい佐平たちにとっては義慈王ではなく、御し易い翹岐を王に推す動きがあったのだろうといわれています。
その翹岐と智積は翌六四二年、倭国に現れて蘇我入鹿の饗応を受けていますが、以後の消息は不明。
そして、二人が歴史の舞台から消えた翌六四三年、突如として中大兄皇子と中臣鎌子が歴史の舞台に登場しています。

中大兄皇子と中臣鎌子は、蘇我蝦夷と入鹿の暗殺を画策し、六四五年、三韓の調を奉る席でついに入鹿暗殺に成功しましたが、この乙巳の変で館に逃げ帰った古人大兄皇子は、「鞍作殿(入鹿)が韓人に殺された」と家人に伝えています。
日本書紀によると、暗殺の手を下したのは、中大兄皇子、中臣鎌子、海犬養連勝麻呂、佐伯連子麻呂、葛城稚犬養連網田の五名で、韓人は含まれていません。

もし、中大兄皇子と中臣鎌子が翹岐と智積であったなら、古人大兄皇子の台詞と合致します。
また、皇極帝の退位を受けて、自らは即位せずに孝徳帝を立てたのは、渡来人が即位するより、帝の血筋をたてる方が得策と考えたという憶測も成り立ちます。

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壬申の乱と天武天皇

天智帝は子の大友皇子を後継にする意向でしたが、天智帝が崩御すると、大海人皇子を帝に推す声も多く、大友一派による暗殺の動きを察した大海人皇子は、出家して隠遁していた吉野から美濃に逃れます。
そして、美濃と尾張に加えて、大和や近江京の支援者も得て大友軍を破りました。
壬申の乱です。
このとき、大友軍は太宰府に援軍を要請しましたが、沿岸警備を理由に拒絶しましたが、その実、中大兄が近江に帰還したあと大宰府に残った大海人皇子に対する支援だったと推察できます。

即位した天武天皇は大臣をおかずに、皇后鸕野讚良の助けを借りて親政を行いました。後の持統天皇です。
鸕野讚良の父は中大兄皇子で、母は乙巳の変で中大兄皇子に味方した蘇我石川麻呂の娘遠智媛。
大海人皇子の妃に鸕野讚良と父母を同じくする大田皇女もいましたが、壬申の乱を前に亡くなったため、鸕野讚良が壬申の乱で大海人皇子を支え、天武天皇即位後に皇后になりました。

帝となった天武天皇は、帝の称号を天皇と改め、国号を日本と定めます。
内政面では、才能があるものを官吏に登用し、才能があり望む者があれば婦女であっても宮仕えを許し、また、律令を整え、日本の正史である日本書紀の編纂を命じました。
律令は、天武天皇のあとを継いだ鸕野讚良こと持統天皇の三年(六八九年)に飛鳥浄御原令が制定され、文武天皇の御代、大宝元年(七〇一年)に大宝律令として完成しました。
日本書紀はさらに時代を下った養老四年(七二〇年)に完成しています。

外交面では、白村江の戦い以来疎遠だった新羅との関係修復に取り組みました。
天武帝は新羅との関係を修復する一方で、新羅系帰化人はもちろん、白村江の戦いののち、百済から帰化した百済系帰化人にも租税を免除するなど、帰化した渡来人を優遇。
扶余豊璋の実弟、善光には百済王の称号を与えました。
一方で、百済遠征以降、九州沿岸の防衛のために設置した防人はそのまま残しています。

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中大兄皇子の生涯

中大兄皇子が日本書紀にはじめて登場するのは、皇極二年(六四三年)のこと。
帝をないがしろにして権勢をふるう蘇我蝦夷・入鹿親子を憂う中大兄皇子は、この年、中臣鎌子と出会います。
神官の子でありながら野心を抱く中臣鎌子は神官を辞退し、軽皇子と親しく交流していましたが、中大兄皇子との出会いにより、中大兄皇子とともに帝中心の政治を取り戻すべく画策します。
そうはいっても、蘇我馬子を継いだ蘇我入鹿は、山背大兄王を滅ぼした後、身辺警護を厳重にしたため、これを倒す機会はなかなか訪れません。

そんななか、皇極四年(六四五年)六月、好機が訪れます。
中大兄皇子と中臣鎌子は、三韓の使者が奏上する間で蘇我入鹿が丸腰になることを知り、この機会を利用して、蘇我入鹿の暗殺に成功しました。
面前で宰相が暗殺された皇極帝は帝を辞し、中大兄皇子に帝位を譲ると仰せになりましたが、中大兄皇子は辞し、中臣鎌子と親交があった皇極帝の異母第である軽皇子を推します。
また、出家して吉野に隠遁した古人大兄皇子にも疑いがあるとして兵を送り、兄を殺しました。

さて、軽皇子こと孝徳帝が皇極四年(六四五年)七月に即位すると、中大兄皇子は宰相に就任し、大化改新を行います。
白雉五年(六五四年)、孝徳帝が崩御したときも中大兄皇子は即位せずに皇極帝が重祚します(斉明帝)。

斉明六年(六百六十年)、新羅・唐連合軍が百済を滅ぼし、百済の義慈王とその子らは捕虜として唐に連行されるという事件が起こりました。
このとき、百済遺臣より、倭に滞在していた扶余豊璋を王に迎えたいと申し出があり、中大兄皇子は全面的な支援を決定。
中大兄皇子は斉明帝、大海人皇子とともに筑紫に出向き、扶余豊璋と一万の兵を送りましたが、戦いに敗れ、残った兵は帰化を望む百済の民数千人とともに帰国しました。
白村江の戦いです。
この戦いの最中に斉明帝が崩御しましたが、中大兄皇子は即位せず、それから六年半の間、皇太子として帝を立てずに政務を執りました。
天智七年(六六八年)、帝として即位しましたが、その五年後の天智十年(六七二年)に崩御しました。

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